ブリタックス・クーパーの 伝説とは

BLMCのワークス体制から外れたクーパーの戦いぶりと新たなチーム

1968 年、BMC はBLMC となるが、それは英国の自動車工業界苦難の象徴的出来事であった。その結果、ラリーはもちろんレースも大幅な縮小がなされ、クーパーチームはメーカーの支援を失う。そこで必然的に生まれたのがブリタックス・クーパーだ。1969 年シーズンはBLMC ワークスをもライバルとして、熾烈な闘いを演ずるのである。その闘いとそこに至る経緯を振り返ってみよう。

Text=飯塚昭三

ダウントンのニールとBLMCのローズの大接戦シーン。カウンターを当てて立ち上がるニールにアウトから抜かんとするローズ。接触していてもおかしくないほどの接近戦に、シルバーストーンに集まった大観衆は大いに湧いた。

BMCワークスとしてのクーパーチームの活躍

 ブリタックスは英国の大手シートベルトメーカーである。英国でシートベルトが義務化された1965年からは、ミニの純正ベルトとしても採用されている。ミニファンにその名が轟いたのは、やはりプレイベートチームたるブリタックス・クーパーのレースでの活躍でだろう。そのカラーリングはいまでもミニファンに愛されており、日本でもそのマシンをモチーフとした「ブリタックス仕様」にモディファイするオーナーが多い。

 まずはブリタックス・クーパーが誕生するまで、ミニクーパーのレース活動はどのような経過を辿ってきたのか見ていこう。ミニクーパーはラリーでの活躍にめざましいものがあり、特にモンテカルロラリーでの総合優勝、上位独占など輝かしい戦績を残している。一方、レースでもミニクーパーはサルーンカー選手権のほか多くのレースで活躍している。それはワークスチームからアマチュアまで多くのドライバーがミニを操ったからだ。そのチームのなかには、後に歴史に残るいろいろなドライバー名が登場する。

 レースに関してBMCは、ジョン・クーパー率いるクーパーチームを全面支援し、ワークス的存在としてサルーンカー選手権に参戦していた。1965年のクーパーチームのドライバーはジョン・ローズとワーウィック・バンクスだったが、バンクスはシングルシーターレースに専念するため去り、1966年はジョン・ハンドレーが引き継ぐ。その年のサルーンカー選手権のタイトルはローズが獲得している。

 ローズはフォーミュラジュニアで活躍した選手で、1960年のアイルランドのFJ選手権のチャンピオンに輝いた。シングルシーターを乗りこなしていたローズにとって、サルーンカーは怖さを感じずに全開で走れるものだった。そのローズが後に「スモーキー・ローズ」と呼ばれる独特のドライビングスタイルを編み出すのには、次のような逸話がある。ローズが第1コーナーに勢いよく突っこんで行くが、10インチに収まっているブレーキはまるで効きが足りない。とっさに彼はクルマを横向きに滑らせる。タイヤは悲鳴を上げタイヤスモークが立ちこめるが、コースアウトすることなくコーナーを回っていた。もっとグリップが良いタイヤができるまでは、この走法がいちばん速く走る方法だと、そのときローズは感じたのだ。すなわち、コーナーの奥深くまで全開で突っ込み、わずかに緩めてテールを外側に振ってまた全開にする、という技だ。

 ローズが編み出したこのドライビングスタイルは観客を喜ばせただけでなく、このスモーキーに慣れていない他のドライバーを面食らわせたという。前を行くローズが横向きになって煙のなかに消えていくのを見たドライバーは、大クラッシュを予感してアクセルを緩める。巻き込まれるのを避けるための当然の行動だ。しかし、ローズはそれを尻目に何メートルも先を立ち上がっていくというわけだ。もっとも、それはタイヤの消耗の激しい走法であったため、チームにタイヤを供給するダンロップにとっては頭痛の種であったのも事実だった。

1969年のイギリスグランプリ。スティーブ・ニールのダウントンクーパーが後輪を浮かせる走りで、ジョン・ハンドレーのBLMCクーパーをリードする。

BLMCの支援打ち切りでブリタックスと組む

1966年、BMCの事実上のワークスチームとはいえ、クーパーチームはこの年にエンジンチューニングがBMCエンジン部門からダウントン・エンジニアリングへと替わる。これが後にブリタックスにつながることになる。

 1967 年も同じ体制で臨むが、情勢は厳しくなってきていた。フォード・アングリアが速くなってきていて、ローズはジョン・フィッツパトリックにタイトルを奪われたのだ。日進月歩の自動車界にあって、ミニの限界が感じられ始めていたのだ。ただ、信頼性ではミニクーパーは優れており、耐久レースでは上位クラス車を出し抜く好成績を残していた。

 1968年にはクーパーチームに加えて、ブリティッシュ・ヴィータ・チームにもBMCがサポートを行なった。ただしこちらは970のミニクーパーで、1000ccクラスへの挑戦であった。ローズはクーパーチームに残るが、ハンドレーはこのヴィータチームに移り、クーパーチームには新たにスティーブ・ニールが入り、1300ccクラスを闘った。結果的に、ローズは総合優勝はできなかったものの、選手権タイトルは獲得した。しかしこの年、背景では大きな動きがあった。BMCがレイランドと統合されBLMCとなったのだ。ラリー活動は大幅に縮小され、レース活動も勝つことに重点が置かれ、新たな体制が敷かれたのだった。

 1969年、BLMCは新たに自前のワークスチームを結成するとともに、クーパーチームへの支援をすべて打ち切る。BLMCのドライバーはローズとハンドレー。かつてクーパーチームにいたふたりである。こうした背景のなかクーパーチームは、エンジンチューンのダウントンとブリタックスと組んで、「ブリタックス・クーパー・ダウントン」という新たなチームに生まれ変わる。ドライバーには、かつてクーパーチームに属したことがあるスティーブ・ニールと、新たにゴードン・スパイスを迎えた。そして、ここから元ワークスといえるブリタックス・クーパーと、新ワークスたるBLMCチームとが熾烈なレースを展開することになるのだ。

 ブリタックスにとってライバルは、ローズとハンドレーという元は自チームにいたミニ使いの名手たち。その激しい争いが今日まで語り継がれるようになったのには、このような複雑な感情が絡む背景があったからだといえよう。ただ、12戦で戦われたこの年のサルーンカー選手権で最も勝率の高かったのは、実はフォードエスコートだった。ミニクーパーが12インチタイヤを履くようになったはいえ、マシンとしての劣勢は否定しようがなく、時代の推移を感じさせるものになっていた。しかし、BLMCが1勝もできなかったのに対してブリタックスのスパイスは3勝を挙げ、本家に一矢報いる戦績を残したのだった。逆境での活躍、それがブリタックス・クーパーが語り継がれる由縁なのだ

本誌Vol.15(2012年9月発売)にて掲載した「ガレージJ&B」が手掛けたブリタックス仕様のミニクーパー。ベースは’91年式キャブクーパーで、ステッカーも当時の写真からワンオフで作るなど、ダウントン・クーパーを忠実に再現した一台だ